せんしん物語

 

(一話)

 市川泉心は一九二九年(昭和四年)、海谷淑子として、石田光成の水攻めでも有名な、埼玉県行田市の忍城下 海谷家の次女として誕生した。

父、光蔵は、長瀞の石畳の石よりも堅物といわれるほどの、武士に精神を残した人物であった。 母なみは、凛とした品と心細やかな愛情豊かな人柄で、淑子はこの両親の元で、すくすくと育った。

 海谷という姓は「かいや」と読み、とても珍しく、叔父が調べたところ日本に三家族しかないと自慢していたのを覚えている。

廃藩置県の折り、海谷家も苦しい選択を強いられ、行田市は足袋の生産でも有名だったので、その職に転じたようだ。

 淑子の家族の本家と使用人の家族、そして足袋工場との間に小さな川が流れており、昏々と湧く井戸で仕切る隣には分家があり、父親の弟と母親の妹が結婚して、三人の子供がおり、とても賑やかで、和気藹々の暮らしぶりであったようだ。

(二話)

 「とら―コードンや」七~八歳から奉公に来た若い衆は、こう呼ばれていた。

忙しく足袋の底布の真っ白な糊付された原反を手際よく選ぶ。

夕方になると、早々に一番風呂を出た父が、金魚の泳ぐ「ひょうたん池」に藤の古木が垂れる客間から、響きの良い低音で歌う「謡曲」が聞えてくる。台所では、白い割烹着を着た母が、数人の女中に采配して、夕餉の支度をしているてその良い匂いが漂ってくる。若い衆も、庭を掃き水をうって…

遠く懐かしい思い出の数々です。

 しかしこの平和な生活も、戦争によって徐々に変化を余儀なくされていく。

三笠宮にご奉仕の命が下り、また弓道で名声を成した自慢の姉も嫁ぎ、四手網で忍沼のドジョウや鮒を捕えていたガキ大将の兄も予科練に志願した。

広い屋敷には、東京から疎開してきた者も含め、女性と子供と心臓病の父だけとなった。淑子は、以前浦和の教育局に勤務していたが、代用教員を勧められて、行田市の小学校に務めていた。

 食糧難で、配給では足らない食糧事情を考えた父が、敷地を開墾して作った畑を、朝暗いうちに起き耕しているため、淑子も学校に登校する前に畑の手伝いをしてから出勤した。

 弁当箱にご飯を詰める真似をして、空の弁当箱を持って行った事も思い出す。また「海谷の大旦那さんの足子機の脱穀機の音は、低い音で、ユックリ カーオー・カーオーと聞えるけど、淑子さんのは早くて高い音で、カオ・カオ・カオ…とすぐわかるね」と言われていました。

父は、無理が祟って、五十二歳で亡くなった。

 

(三話)

 戦争は益々激しくなり食糧事情も逼迫する中、代用教員として行田の小学校に努め始めた海谷先生(初代市川泉心)の空弁当通勤は続いた。

何よりの救いは、子供たちの笑顔である。 空腹に負けず校庭を駆け回る子達がクラスに一個しかないボールを奪い合っている。そんな様子を見て、海谷先生は何とかしてボールを増やしてやれないかと思案した。

 「クラスの全員が、先生との約束通り教科書(国語)五十ページの漢字をノートに書けたので、明日はご褒美にイナゴ取りに連れて行きます。 みんな布袋を忘れずに用意してらっしゃい。」 

「ウアー」 教室一杯に子供たちの歓声が響いた。

 黄金色に輝く武蔵野の景色の中、かわいい子供たちの顔が見え隠れする光景は、今でも忘れることはない。「イナゴも沢山獲れた」 それを父兄に買って貰って、そのお金でいくつかのボールを増やすことができた。

 ある日、生徒たちが海谷先生の耳元で「ある事」をそっと囁くように云ってきた。「今度またそのような事があった時にはすぐ先生に知らせなさい」と、それから暫くした冬の寒い日だった。生徒たちの知らせで校長先生を訪ねた海谷先生は、校長室のドアをノックと同時に思い切り全開した。そこには火鉢に両足をまたぎ新聞を読んでいる校長先生と、その下の床を一生懸命に雑巾がけをしている生徒の姿があった。

その他沢山の武勇伝があるが、いつも生徒と一緒に掃除をしたり、一緒に遊ぶ海谷先生… だからこそ大胆な事もやってのけたし、父兄と生徒に絶大な人気があった。

 

 

(四話)

 今回は初代市川泉心が、詩吟独自の作品を教材六冊まで創作できた原点をお話します。

 初代市川泉心は、武蔵野現埼玉県行田市に昭和四年十月十三日に生れた。

 廃藩置県により武家の生活から足袋の商家に転じた海谷家は、多くの使用人を雇い賑やかな中で幼少期を過ごした。

ある晩夏のひぐらしの聞える夕暮れに、早めに仕事を終えた下男達はそれぞれに檜の風呂に湯を沸かしたり、瓢箪池のある庭を掃いたり、滾滾と湧く井戸から汲み上げた水を撃ち、仕事道具をかたずける。一番湯に湯船からザザーと溢れた湯に浸りながら、父の低くて響きの良い謡曲が風呂場から聞こえて来る。

 お正月には、娘たちは振袖のおめかしをして琴のお弾き始めを饗宴する。母は小気味の良い撥さばきの長唄の三味線。 叔母たちの色々なお稽古。時には、歌舞伎の鑑賞。 一番好きだったピアノのお稽古(その時代にピアノが家にあった)……

戦前の平和で風雅な日本の原風景がそこにはあった。 

その現風景の中で鳴っていた「音」が、子供だった宗家の記憶となり、宗家の中で入り混じり、一つの独自の作品となったと考えられる。

そして、多くの泉心流「上席物」へと生み出されていった。


(五話)

 関東七名城の一つ、別名「忍の浮き城・亀城」忍城は、湿地帯の、元々沼地だった所に島が点在する地形で、沼を埋め立てずに独立した島を輪郭として、橋を渡す形で城を築いた。豊臣秀吉の関東平定の際、石田光成がその地形を利用して水攻めを行った事も有名である。行田は城下町として、中山道の裏街道宿場町としての機能や、利根川の水運を利用した物流路としても栄えた。足袋の産地としても有名である。

 淑子は、鐘楼に近い所に住んでいた。

 子供の遊びといったら、四手網を持って近くの川に鮒やドジョウを取りに泥だらけで遊んだ。座布団一枚位の、三方囲まれた網を川に沈め、竹の棒で魚を追い込む漁方で、河エビが跳ねて、ザリガニ

も真っ赤なハサミを高く威嚇して、

魚も跳ねた。時には、鰻も捕れて、器用な母が蒲焼を作ってくれた。鮒は甘露煮に、鯉はアライや鯉こくに、泥鰌鍋、ザリガニも美味しかった。

 夏には、「カイドリ」と言って、川の水が少ない時期に堰き止め、

その中の水を掻き出すと、その中にたくさんの魚やタニシなど、ぴょんぴょん跳ねて、バケツ一杯捕れる。楽しかった。

 彼岸花の咲く頃、「きつねの嫁入り」も二階からよく見たそうだ。畑の遠くでちらちらする光が、ゆっくり行列を作り、ハァーと息を吹きかけると、ボォーと光が膨らむ。不思議な光だった。

 母親が婚礼に呼ばれて、お祝いの折り詰をもって帰宅しようとしたが、どうしても目の前に山が隔たり、右往左往して沼に足を取られたりして、着物が泥だらけで帰宅した時も、その、風呂敷包みの中の鯛の折り詰の中身が消えていた、不思議な体験も話してくれた。

 なつかしい、故郷の思い出です。  


秩父盆地は、夏、むし暑く、冬も底冷えのする寒さとなる。

父の転勤で私が5歳まで、母(初代)の姉(私の叔母)の嫁ぎ先の秩父に住んでいた。

 叔母は美しく優しく才色兼備で、「三笠宮家」に御奉仕するように命が下った事が母の自慢で、その後、弓道でも名手となり、毎日ラジオでその活躍が「海谷静子嬢 命中―」と賑わしていたようだ。その叔母が弓道連盟の会長に見初められ、結婚しても弓が引けると嫁いだ地が秩父である。

 広い母屋には、昔の間かり屋のような囲炉裏のある大きな作りで、

使用人や、女中、小作人が出入りして、五百メートル位離れた所に、お妾さんと住んでいた舅と、冷たい無表情の姑に使えて、辛い生活を送っていた。家道楽の舅が九回も建て替た離れは、組木の欄干を超えて、豪奢な造りと庭を配し、金屏風、四方を全て開け放てる窓、と、その全てを収納できる雨戸、床の間には兎を仕留めた鷹の剥製、壁にも鹿の剥製が立派な角で威嚇する。蔵の傍にも、味噌や醤油、漬物や、養蜂なども貯蔵した暗い建物もあり、その床の木の何枚かを外すと、地下にも部屋が有り、そこには大きな赤い目をした、化け蛙がいて、悪い事をしたら、そこに閉じ込めると私達子供達は脅かされていた。

 武甲山を背に、札所26番の観音像が美しく拝礼し、眼下には荒川が蛇行する流れが木々の合間に見える。その中腹に舅と妾が住んでいた家に私達家族が仮住まいした。

こじんまりした、その家も又、木造の良い作りで、庭には湧水が竹筒から常時池に注ぎ、小さかった私達の恰好の遊び場だった。
      つづく

 

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